これは、オマケね。

 成歩堂はそう告げて、響也の掌に飴を置いて去った。普通のストアに普通に並んでいるだろう(これ)は普通の飴玉だ。包装紙には葡萄の絵が描かれ(grape juice)という文字の上には息爽やかと印刷されていた。
 響也は手の内にあるそれをじっと見つめる。
 プラスチックの包装紙は随分とヨレ、幾つも皺がつき、その山折になっている場所の印刷はかすれている。きっと、中の飴も溶けて変形してしまっているに違いない。

「もう、食べちゃわないと駄目だよね。」

 ホウと息を吐き、踏ん切りのつかない自分に苦笑した。
あれからずっとポケットに入れて持ち歩いてるなどと、成歩堂に知られたら何と思われるだろうか。
『子供っぽい』と思われるのだけはゴメンだったが、『大切にしてくれて嬉しいよ。』とでも言われたら……………考えただけでも顔がにやけた。

「さっきから、気持ちの悪い子ですね。」

 ピシャリと背を打つ声に、響也は意識せずに姿勢を正す。そうして、此処が兄のマンションだと言う事を急速に認識する。成歩堂とお付き合いをするようになってから、何となく気まずく、多忙な事もあり疎遠になっていた兄にに逢いに来たのだ。
 何のアポイントメントも入れていなかったから、家に入れて貰えたものの兄は持ち帰った仕事の真っ最中。待てを命ぜられ、暇を持て余していた。

「そんな汚い飴なんか、考えるまでもないでしょう。捨ててしまいなさい。」

 眼鏡を指先で抑えながら、霧人はパソコンの画面から目を離さない。それでも、自分が何をしているのかわかるなんて、だから兄貴は侮れないんだと響也は思う。
「や、これはその…貰ったものだから、食べるよ。」
 このままでは取り上げられてゴミ箱に捨てられるのはわかっていた。響也は慌てて首を左右に振り、包み紙を開ける。
 途端に葡萄の芳香が広がれば、兄はニコリと笑う。
「響也、覚えておいてください。私はその臭いは嫌いなんです。」
 声は明らかに機嫌が悪く、笑顔でそれを告げる兄に響也は震え上がる。
 ヤバイ…。バクバクと速まる心臓に追われるように、響也は急いで口に放り込む。チラと横目で伺えば、それ以上追求はない様子にほっと胸を撫で下ろした。
 緊張に乾いた口腔に飴の甘みが広がっていく。舌先にとろける甘い味は少しだけ交わった成歩堂の唇によく似ていた。顎に添えられた彼の指、近づいた体温と成歩堂の匂いも蘇る。
 好きな相手との初めてのキス。年上でもあるし、成歩堂にリードされてしまったが
、今度は自分がエスコートする番だよねと、響也は密やかに胸を躍らせた。
 返事は来ないだろうがメールをしておこう。今度はいつ逢えるのだろうか、と。
 
「紅茶を入れましょう。そんな飴では口の中が甘ったるいでしょうから。」
 そこがいいんだけどね、と反証は心の中でだけ返した。
兄は愛飲している高級な銘柄が記された缶を取り出すと、キッチンに消える。響也は彼の背中に投げかけた。
 
「…でも、兄貴って葡萄嫌いだったっけ?」

 幼い頃からの記憶をひっぱり出しても、そんな事実は出て来なかった。霧人はふうと大きく息を吐いた。 
「あの男ですよ、どんなに美味しい飲み物を与えても、安っぽい葡萄ジュースを飲むんですから、いい加減嫌になります。」
「それって、成歩堂…龍一?」
「呆れたものですよ。一流の品に触れれば、自ずと嗜好が高まるものでしょうに。友人として、あの嗜好はどうにも頂けませんね。」
 やれやれと言った声がキッチンから聞こえた。呆れてはいるが、決して嫌悪や怒りではなく責める言葉を使っていない事に、成歩堂と兄の親密さを感じた気がした。
 モヤモヤと浮かぶ気持ちに喉がつまりそうになる。
 成歩堂に限らず、過去の出来事など預かり知らない事だ。
 常ならどうしようもない、これから親密になっていけば良いしそのつもりだと割り切れる感情なのに、どうにもコントロール出来なかった。
 それは相手が兄だからなのか、それとも成歩堂だからなのか、それとは違う感情なのか見極める事すら不可能だった。
 兄が紅茶を入れ、装飾の施されたトレイに華奢なカップを乗せて戻ってくる。
目の前に置かれたカップから立ち上る湯気を追いかけるように、響也は顔を上げた。
 笑顔の兄と目が合う。
「ねぇ、どんな所に、行ったの?」
 ふわりと良い香りが響也の鼻を擽るから、つい口に出してしまった。
「貴方には関係ありませんよ、響也。」
 笑顔のままで、しかしピシャリと会話は断たれる。口に残る言葉と共に紅茶を飲み込めば、甘味の入らないそれが、響也にはやけに苦く感じた。


欲しいくせに、いざ遣ると言われて手を引込める様な男では、二度と機会は掴めない。


 ブルブルと携帯が震える。前屈みになって椅子に座っていたので、パーカーのポケットに入れたままのそれがくすぐったい。成歩堂は素早く取り出した携帯の画面を見た。
『牙琉検事』
 そうして、受信フォルダに示された新着メールに苦笑する。開封して一読すると、そのままポケットにしまい込んだ。
 そんな自分を様子に、事務所に遊びに来ていた友人が不躾な視線を送っていた。
 矢張は所長室にいた成歩堂を見つけると、ゴチャコチャと物が溢れかえった事務所を掻き分けてやってきた。そうして机に自分用に缶珈琲とお茶請けを置き、自分自身もだらりと上半身を机に預けて、だらだらと成歩堂に話掛けていた。
 今は同じ体勢で、成歩堂を見上げている。
「なんだよ?」
 御剣なら深く皺を寄せる部屋の混沌は、この男には関係ないらしい。
 気になったのは娘のみぬきがいなかった事で、自分の彼女に娘の写真を見せる約束をしたのにと、勝手に残念がっていた。ザマミロと内心思っていたのがバレたのかと思っていれば、矢張の指先は携帯を仕舞ったポケットを示す。
「随分とこまめに携帯見てるなぁと思って。おまえ、そんなにマメだったっけ?」
「頻繁にメールをくれる人間がいてね。」
「ああ、女だろ? 俺と離れる寂しいみたいでさ、彼女もしょっちゅうメールして来て、直ぐに返事をしないと怒るんだぜ。
 もう可愛いったらないよな。」
 デレリと鼻の下を伸ばした友人にはただ呆れた。惚れっぽい男なので、しょっちゅう惚気を聞かされるが、常に女の名が違う。今、繰り返し告げられる名前も聞いた事のないものだった。
「彼女さぁ、モデルなんだけど、もう俺がいなくちゃ駄目っていうの?
 この間も仕事現場にも着いてきてっていうからさ、仕方ないから一緒に行ってやったよ〜。」
 聞いていればわかるが、荷物持ちとして重宝されていただけのようだ。わからないのは当人だけ。それでも矢張がご機嫌なのでツッコミを入れるのは、面倒なので止めておく。
「そしたらさ、あのガリュー・ウェーブとかいうバンドのプロモとかで、女の子を侍らせてきゃーきゃー言われてたぜ。
 勿論、アイツは俺しか見てないけどね!!!!!!!」
 親指を立てて、ポーズを決める友人よりもその内容が興味を引いた。
「ガリュー・ウェーブ?」
「あの警察関係者がやってるっていうバンド。なんか、派手な奴等だったぜ。」
 撮影の様子に(へぇ)とか(ふうん)と頷く自分の言葉が白々しく耳に響いた。友人の語る彼と、自分と一緒の時の彼に違和感を感じる。
 最初の法廷での彼も生意気な子供にみえたのだから、矢張の感想はそれはそれで正しいのだろうが、子犬にも似た様子と繋がらない。まるで意図的に、変えてでもいるようだ。
 
 そう感じると何だか面白くない。

 成歩堂が黙り込んでしまった事に気付くと、矢張はニヤリと笑う。
「お前、俺の彼女が羨ましくなったんだろ?」
 どうしたら、そういう結論になるんだか。
 一点集中の思考に何処か羨ましさを感じながら、成歩堂は苦笑する。興味があることにだけ反応するから、いらないトラブルに巻き込まれるのだろうが、単純明快な性格が嫌いな訳ではない。気心のしれた友人だ。

「じゃ、明日この時間にな。まだ撮影はあるらしいから、俺のダチって事で入れてやるよ。」

 え?と、声の持ち主を見れば、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて名刺を置いたところだった。印刷された名前に用があるのではなく、そこに書かれたスタジオの名と地図を成歩堂に見せたいようだ。
「おい…?」
 皆まで言うなと、矢張は指を振った。俺様には全部お見通しだなどと言い始める相手に、成歩堂の眉間にはどんどん皺は増えていく。はぁ?と顔を歪めても、わかった。わかったと繰り返す。
「仕方ねぇなぁ。お前がそんなに彼女を見たいんだったら、連れてってやるから。だから、代わりに魔女っこの写真を撮らせてくれよ。」

 誰が誰を見たいって!? それにみぬきは魔女じゃなくて魔術師だ!

 有り得ない結論に、成歩堂が抗議の為に出た時には、矢張はスキップを踏みながら部屋を出ていくところだった。引き留めようとしたが、こんな時の矢張はとんでもなく素早く、成歩堂の手では掠りもしない。
 意味不明で行動は迅速。事件の陰にはヤッパリ、矢張はこんな時にも健在だ!
 
「楽しみに待ってな。」

 オイという声にも何ひとつ返事はない。いつの間にか事務所にいるのは成歩堂だけになっていたようだ。机の上には、飲みかけの珈琲と、菓子の屑。
 掃除をする気にならないので、このまま机のオブジェとなってしまうのだろう。
「家政婦さんが欲しいなぁ。」
 師匠が聞けば、確実に殴られそうな言葉を呟きもう一度、椅子に座る。
待っていたかのように、携帯が震えた。

『牙琉検事』

 名前を見れば、今度は受信ボックスを凝視してしまう。
まだ撮影があると言うのだから、きっとガリューウェーブの撮影現場なのだろう。どんな彼を知っているかと問われても、何を知っている訳ではないが、芸能人の彼は殆ど知らない。
 こうして頻繁に自分が出ている番組や曲の情報を送って来てくれるけれど、そうそうと思ってテレビを付けた事もない。寧ろ、避けていたような気さえする。
 一度、偶然ブラウン管越しに見た彼に、違和感を感じた事があるからなのかもしれない。検事としての彼には多少馴染みはあるが、芸能人の響也をまるで知らないのだ。特に知りたい気持ちも無いが、明日矢張につき合わされれば、目の当たりにしてしまうのだろう。その時、どんな感情を抱くのか、我ながらまるで見当がつかない。
 
「面倒くさいな…。」

 唯一、確実にわかった感情を口にして、成歩堂は携帯をポケットに仕舞った。


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